福岡市中央区のウィメンズクリニック

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開業のご挨拶に代えて

経膣超音波を聴診器がわりにして

始めて超音波診断装置を見たのは昭和53年に九大産婦人科に入局してからでした。膀胱充満させた患者さんを暗室に案内しベッドに寝かせ、お好み焼き用の刷毛でお腹にオリーブ油を塗って検査を始めるのでした。プローべでお腹を縱横になぞる度に画面に影絵のような模様が現われ、数秒で薄れて消えてしまうのです(コンタクト・コンパウンド方式)。その影絵模様を見て子宮筋腫や卵巣嚢腫の診断をするのですが、はじめてみる者にとっては子宮がどれかもわからず難しい技術でした。時々させてもらいましたが、専門外来の担当医のような画像が画面に出ないのです。半年ぐらいで子宮や卵巣腫大や妊娠子宮が分かるようになりましたが、写真に撮れるような綺麗な像を出すにはさらに半年以上かかったように記憶しています。毎週木曜日に当時助手であった中野先生(現教授)が主催する超音波カンファランがあって、写真と検査報告書と術後診断を比べるから、いっそう緊張しました。

1年目の研修中にE-スキャン方式という新しい超音波装置がお目見えしました。プローべも変わり、今までの棒状のプローベから弁当箱を横にしたようなプローべになりました。コンタクト・コンパウンド方式ではブローべが当たった部分のみの反射波が見えていましたが、今度のは超音波が弁当箱の横の面全体から出て反射しそのまま画面に表示されるのです。「画面が消えない。赤ちゃんの心臓が動いているのが見える」とびっくり仰天しました。これだと上手いも下手もなく患者さんの子宮や卵巣が見えやすければ誰にでも描出できました。2年目に大分県の病院に出張に出た時、そこの部長と院長に頼んで買ってもらい、ほとんど一人で使いました。

各地を出張し昭和63年に九大病院に戻り、不妊外来と習慣流産外来を担当することになりました。排卵日ごろに卵胞発育や子宮内膜の厚さを測るのですが、患者さんに漏れそうなぐらい尿を貯めてもらい経腹超音波で見ました。卵巣が見えるほど尿をためるのは患者さんにとって結構大変で、膀胱充満が不足し急いで水を飲んでもらったり、順番待ちの間に我慢しきれずトイレに行ってしまい、また水を飲んでもらったり、とかがよくありました。

そのころ不妊外来にドイツ製の経膣超音波装置が来ました。膣にプローべを入れて装置の画面を見るのですが、周波数が7.5MHzの割には解像力が低いのが欠点でした。その後すぐに国産のコンパクトな経膣超音波装置が来ました。最初の数週間は使い慣れず、子宮や卵巣の描出などに時間がかかりましたが、そのうちコツを飲み込み、数十秒で子宮と両側の卵巣まで観察できるようになりました。近視になってはじめて眼鏡をかけた時のように視界がはっきり/くっきりし「これが子宮内膜だ。卵胞だ。」と思いました。経腹超音波の場合はプローべを色々に動かして最も見やすい方向から超音波を入れるのがコツですが、経膣超音波ではプローべの動きを最小限(上下/左右にせいぜい30度まで、回転はかならず半時計方向に90度)にすると位置関係が良く分かって、頭の中の立体空間に画像が組み立てやすいことがわかりました。その後、産婦人科外来主任となってからは、ほとんど自分専用に使いました。改造型のEXタイプが出た時は、これに完全に嵌まってしまいました。プローべが小さく膣内に入れても痛みや抵抗がなくなり、コンピュータ処理がよくノイズが最小限となり画像がより鮮明になりました、5.0MHzから7.5MHzまでの周波数が素早く3段階に変更可能で、遠位の病変や太った患者さんにもボタンひとつで対応できる、などの利点がありました。産婦人科病棟主任となった年には、なんとかお願いしてもう1台病棟に置いてもらい(最終的には6台ほど購入していただいた)、入院時診察の時には必ず内診と経膣超音波検査を行ないました。良性腫瘍であれ悪性腫瘍であり術前の誤診が大幅に減ったと実感しました。

その後に新機種のCFSタイプが発売されましたが、今回の開業に際しては会社に無理にお願いして旧式のEXタイプの経膣超音波を置かせてもらいました。卵巣の機能性病変や腫瘍との鑑別、良性/悪性の鑑別、子宮筋腫と子宮腺筋症の鑑別のみならず、不妊外来での卵胞発育、子宮内膜の周期変化、閉経後婦人の子宮体癌のスクリーニングなど幅広く臨床に応用できます。子宮内膜と卵胞発育をチェックすると、あと何日で排卵か/排卵後何日目ごろかなどが見えて来ます。不正出血の婦人の子宮内膜の状態と卵巣の状態を比較すると、内膜が剥離した出血(=月経)か否かがすぐ分かり、採血してエストロゲンやプロゲステロンまたはFSHやLHを測定しなくてもある程度の病態が判明します。こうして経膣超音波は、今や私にとっての聴診器がわりとなっています。

3年前の12月の夕方に親父が大動脈瘤破裂で倒れた。89才であった。倒れたその日まで外来患者をみていた。人工大動脈置換術は何とか乗り切ったが、3ヶ月後に90才になってすぐ他界した。中学/高校時代は成績が悪かったが、親父からは成績のことで怒られたことはなかった。医学部へ行けとも言われた事もなかった。医学部に入って卒業の時期になると「産婦人科はきついから止めとけ」と言われた。結局医学部を受験し卒業して産婦人科医になってしまった。今思うと親父の無言に救われた部分が大きい。現代の核家族の子供達は可哀想である。「嫁にとってはつらい事が多いかも知れないが、子供にとっては大家族が良いのではないか」と考える事が多い。もし祖父母らがいて、両親から叱られた時など「まあ、そう怒らんでも。この子は大器晩成じゃからいまに良くなるよ。」と逃げ場を与えるだけでも子供の心は成長するのではないだろうか。

親父は医師になった私に「開業だけは止めとけ、忙しいばかりで儲からんから」とも言った。昨年の7月に中央区の荒戸で開業したが、きっと笑っているであろう。

菩提本無樹、明鏡亦非台、
本来無一物、何処有塵埃。

(ぼだいもとよりじゅなし、めいきょうもまたうてなにあらず、)
(ほんらいむいちもつ、いずくにかじんあいあらん。)

院長 佐野 正敏

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